大木素十 丸平コレクション

丸平大木人形店  大木平蔵作  大木素十コレクション
二番親王立像尺三寸二十六人揃二番親王立像尺三寸二十六人揃
六番親王七寸二十一人揃六番親王七寸二十一人揃
その他の雛その他の雛
五月人形と本狂い五月人形と本狂い
丸平さんのこと

丸平大木人形店のこと

創業250年を数えようとする丸平大木人形店は、人形とそれに付随する飾り物のみを扱って続いた京都でも随一の老舗です。

その歴史が比べものにならないように、真の実力というものは三井・岩崎を始めとした財閥を悉く顧客に出来た五世以降にこそ顕著で類を見ず、丸平の廃業は単に一軒の人形店が無くなるというのではなく、日本から正統な人形が絶滅する瞬間でもあるほどの意味を持つのです。

分業である人形制作の中で、頭(かしら)をはじめとした人形のパーツをそれぞれの職人に発注し、それを集めて人形に仕立て上げる職種を“着付け師”と呼ぶようになりましたが、商業流通での販売をして来なかった丸平さんであり、雛人形や五月人形に止まらない、様々な人形の企画から制作まで自らされて来られた丸平さんは、“着付け師”と呼ぶには相応しくなく、あくまでも“人形司”というものなのです。

一度“安物作り”というレッテルを貼られると、パーツすら一流のものは渡されなくなってしまうような京都の特殊な職人環境にあって、着付け師がどれだけ優れた人形に仕立て上げられるかは、どれだけ優れたパーツを集められるかという事でもあります。
当然そこには、経済上の問題が大きく立ちはだかりもするのですが、言わば別次元に存在し得た丸平さんは、時には様々な職人の生活を支える意図から、敢えて必要もない数のパーツを発注するような配慮もされていたようです。

丸平さんは卸しや仲買という商業流通に属さず、“職商人(ショクアキンド)”という姿勢を貫きましたから、その価格には仲介料というものが含まれないのです。
卸値の五倍六倍は当たり前という際物業界にあっては、絹100%の衣裳などとても使えませんから、織物の発注で「絹100%であっては困る」という一般的な着付け師に対し、「絹100%でなければ困る」というほどの違いが最初に存在してしまうわけです。

更に、決まった寸法の生地から、どれだけ数多くの衣裳が作れるかという苦肉の策の優先ではなく、出来上がりの理想型のために必要なだけ生地を使うという決定的な相異もありますから、ゆったりとした自然な流れを見せる装束の余裕は、そうした違いから生み出されるのでしょう。

丸平さんには“常の物”という言葉がありますが、定番商品として在るもののことで、それも抜きん出ているには違いないものの、丸平さんの真価は店に並ばない人形にこそあるのです。

その代表的なものが、雛でいうなら“脱ぎ着せ”という、一枚ずつ仕立てた装束を着付けた着脱自在の仕立てです。
五世時代には、人形本体すら御所人形の様に作ってそれに着付ける事までしていましたし、今でも出来ない事ではありません。

要するに、そこが今さっき商われた物であろうと美術館の展示に耐えられるということで、そうした意味では幾多の着付け師には“常の物”しか作り得ないということになるのです。
そして、これこそが並び得ない別格の水準の証明というものでしょう。

今の世の中は、知識の裏付けもない己の感性とやらを垂れ流して、恥も身の程も知らずに好き勝手なことを言ったり書いたりの横行が当たり前になってしまいましたから、丸平さんへの根拠もない中傷なだけの記述も多いようですが、そうした方々は悉く、丸平さんの真価を示すような人形に接していません。

しかしその反面、展覧会をしていつも思わされるのは、世の中には人形を愛し、優れた人形と接したくて居る人達が沢山居られるのだという事実です。
そしてその方々にとって、丸平さんの真価こそ感嘆と称賛の対象そのものだったのでした。

丸平さんと私

丸平さんと私

私が丸平大木人形店を初めて訪ねたのは、平成2年1月の事ではなかったかと思います。

その数年前に高鹿俊英さんという関東の人形師の作られた官女に惹かれた私は、徐々に平安装束の世界にのめり込み、やがて文様や仕立てに至るまで、有職に則った雛を自分のために誂えようと考え始めたのでした。
そうした雛を探し始めて、たった一軒に辿り着いたのが丸平さんだったのですが、奇しくも同姓なのでした。

“常のもの”である男雛の背中の美しさに感嘆したその時もさりながら、丸平こと大木平蔵という人形師の真価を衝撃的に知ったのはその翌々年、日本橋のデパートで六番脱ぎ着せ親王を目にした瞬間なのです。

所詮、『節句人形』という観点から離れられないでいた雛人形というものを 、ここまでの高みに上らせ得る七世大木平蔵という人形師が受け継いで成せる技の別格さにそれこそ驚愕してしまい、躊躇もなく脱ぎ着せ雛制作を依頼に京都に飛んだのです。

それから二十数年を数えて、丸平七世さんの協力に支えられた私のコレクションは、まさに分不相応な規模となりましたが、私は決して人形マニアではありません。
丸平五世〜七世時代の雛と本狂い人形に魅せられた丸平ファンなだけで、同じ丸平雛でも五世より前のものには殆ど興味を感じないのです。
ですから私のコレクションは、ひたすら私個人が惹かれた丸平の世界というに尽きるでしょう。

このコレクションの人形には、確かに制作した年というものはありますが、使われた頭(かしら)は120年前の制作であったり、装束も織られてから80年以上を経た生地で出来ていたりと、ある方の言葉を借りれば『時空を超えて出来た人形』というものなのです。

古くなるほど胡粉に独特の艶を帯びてくる練頭の如く、私のコレクションはこれから年月を経るほど良くなって行く事でしょう。

ここに掲げる画像は全て私がスマホで撮影したものですから、たとえ画像が悪かろうとも、私が最も美しいと感じたアングルの集積と申せましょう。

どんなに画像が本物の魅力を伝えるに難しくとも、丸平さんの節句人形というものがここまでの高みに上れるということの少しでも、その画像で伝わったならと願うものです。

京都頭師の変遷

明治時代から昭和50年過ぎまでの凡そ100年間で、京都人形頭師には四人の代表的な名人が数えられるようです。

即ち、山下(生没年不詳)→十一世面庄(明治33年没)→十二世面庄(昭和20年没)→二世川瀬猪山(昭和55年没)の四人です。

何せ商業ベースの職人世界のことですから、どれだけ人形に顔が重要であろうとも、名人中の名人だった十二世面庄ですら、その存在は分業である人形職人の一人に過ぎませんでした。

今でこそ人形師が当たり前のように号を名乗るようになっていますが、丸平さんですら大木平蔵をブランドとして名乗り始めるのは、パリ万国博覧会で受賞した明治中頃からのことだったようです。
ましてや頭師が作家のように首軸に号を署名するだなど、二世川瀬猪山になって初めてだったのではなかったでしょうか。

明治初期に山下という名人頭師が居たというのは、丸平七世さんが記憶するお祖母さんの言葉からなのですが、記録が残っている訳でもなく山下は単に苗字なだけのこと、丸平さんですら名前も分かりませんし、どれが山下なる頭師のものなのかも実は不明なのです。

当世面庄さんにお聞きしたのですが、全く事情は分からないものの、面庄さんには山下の木型が残されているのだとか、しかしそれによって、ずっと疑問だった十一世面庄と十二世面庄の雛頭の著しい違いは、山下の木型に準じて雛頭を作った十一世と、あくまでもオリジナルな自分の頭の完成を目指した十二世面庄の違いだったのではないかと 考えついたのです。

明治中期頃作られた大きな丸平雛で、その頭を山下作と解説されているのを見掛けますが、あれも十一世面庄の作ではないかと考えています。

何故なら、私の二番女雛頭を始めとして、首軸に面庄印が押されながら明らかに十二世面庄の手ではない古い雛頭の美感や感性と、紛れもない一致を見るからなのです。

藁胴である限り、首軸を引き抜いてその筆跡を見れば分かるのですが、私は研究者ではありませんし要らぬ事なだけでしょう。

それにしても、共に初代川瀬猪山から教えを受けた二世川瀬猪山(息子)と初代川瀬健山(甥)でありながら、師匠のスタイルをキッチリ踏んだ甥の健山に対し、息子である二世猪山は親の頭から脱却して自らの頭を作り上げようと進んだ選択と酷似している ようで、非常に興味深く思っています。

さて、世紀の人形頭師だった12世面庄の頭(かしら)といったら、頭だけの時には本当になんて事無いように見えるものなのです。

それが、髪を着け、衣装を着けるという一行程ごとにどんどん美しく変身してゆくのですから、きっと12世面庄という方はそれを見越した制作の出来た、職人中の職人だったのでしょう。

下に添付したのは、『五節舞姫』に仕立てる頭です。
これは丸平さんの蔵に90年も眠っていた神功皇后の頭なのですが、仮に髪をつける型紙を付け、更に日陰の糸(蔓)を施しただけで、同じ頭がこんな風に変わるという実例です。

12世面庄の代表作といったら、祇園祭で放下鉾に乗る実物大の稚児人形『三光丸』の頭でしょう。

昭和初年、丸平五世時代に作られた人形ですが、通常なら3000円は取ろうに、五世は僅か300円で請け負ったのだそうで、何故そんなに安く作るのかと聞いた六世に、『神さんのことやし、それでええんや。』と答えたそうです。

かつては丸平さんの職人三人によって、腰に着けた鞨鼓を打ち鳴らす仕草で練り歩かれたものでしたが、今でも祇園祭で見る事が出来ます。
生身の稚児よりもっと気高い姿と息吹を以て、鉾の行き先を凛として見据えるその姿といったら、紛れもなく人形芸術の極致ですから、それを見るためだけに祇園祭見物されても、決して損は無いかと思います。

京都頭師の変遷1京都頭師の変遷2京都頭師の変遷3

左から『十一世面庄』『十二世面庄』『二世川瀬猪山』

京都頭師の変遷4京都頭師の変遷5京都頭師の変遷6

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