六番親王七寸二十一人揃
二世川瀬猪山練頭 七世大木平蔵作 頭昭和30年代作
二世猪山(チョザン)の練頭を使っての制作です。二世猪山の頭というのは面庄と正反対に、髪付けすらしていない出来たての状態が最も美しく、行程を踏むほどその美しさが削がれていくように思います。
しかしこの下者を作って貰えるまで、実に三年の歳月が必要でした。終いには「もう作れないので諦めて下さい。」などと言われる夢まで見て、その時の落胆といったらなかったのです。雛段は間口230cm奥行き210cmでしたが、奥の八畳に飾って六畳の一部屋を隔てて眺めた時の豪華さは目に焼き付いて消えません。
六番脱ぎ着せ男雛 高さ36cm
黒雲鶴文(ウンカクモン)の御袍。白浮線陵の下襲(裏は黒紗遠菱文)。朱繁菱文の単。戦後、丸平さんでは袙を着せていません。この色と文様は親王クラスのものですので、垂纓(スイエイ)にしてあります。茵の四方に菊の刺繍。飾太刀は、五世が制作した七世の伯母さんの男雛飾太刀の写しです。
六番脱ぎ着せ女雛 高さ32cm
朱小葵に鸚鵡丸の二陪織物の唐衣に、濃青桜立涌文菊丸二陪織物の表衣。白雲立涌文桜襲五衣、紫繁菱文打衣、青幸菱文の単です。唐衣の布地は、五世時代に織られたとりわけ素晴らしいものです。結髪は桂武一(カツラブイチ)さん四十代後半の仕事とか、一糸乱れずとはこのことか…という程の完成度です。扇の五色紐は畑甚(ハタジン)さんという、隠れた名人職人の仕事で、縒りが完璧なため、にな結びされても方向が定まって揺るぎなく端正です。この雛は重陽頃の納品のため、櫛や絵元結の図柄を菊にしました。
六寸居稚児 高さ13cm
四人の居稚児は、半尻(ハンジリ)と着流しの二組です。尺三寸の頭を探している時、面庄による居稚児頭が何組か出て来て、あまりに美しいので着流し分をそれに替えました。その良さが写真に出ず残念です。袴の中に正座した足があります。半尻は、金茶と紫の亀甲に雲鶴丸文。着流しは赤塩瀬に桜橘丸と金糸の観世水刺繍です。
刺繍 口開き
刺繍 口閉じ
半尻 口開き
半尻 口閉じ
七寸五人官女 高さ23cm
五人官女の中央は、後に小袖から袿単(ウチキヒトエ)に着せ替えたものです。仕立ての種類や組み合わせは私の要望で、背縫いの他隠れてしまう内着にも衽(オクミ)が付いています。三宝に乗る雲土器(クモカワラケ)は、伝統工芸展で高松宮杯を獲得した博多人形師中村信喬さんの制作。小さなものを得意にした二世猪山の官女頭は別格ですが、最も満足の行く頭は八番のもの…と、娘さんである三世に話されたと聞きます。
長柄銚子
三宝
嶋台
雲土器
加えの銚子
四寸五人囃子 高さ21cm
素襖(スオウ)に松皮菱(マツカワビシ)、内着の 袖に松毬と松葉を金糸刺繍でと“松つながり”にしてあるのです。内着の刺繍図案は岩崎小彌太が大正末期に夫人の為に丸平で誂えたおぼこ五人囃子の写し。家紋蒔絵の印籠を下げ、根付は一刀彫の猩々(ショウジョウ)。結髪は、てっぺんを丸く括って髷を結い、そこに烏帽子の紐を掛けます。丸平七世の振り付けは、“これから打つ、これから吹く”という動作が特徴で、長くお能を観てこられたせいか、目を閉じても出来ると言われる大皮(オオカワ)の振り付けは、歴代の大木平蔵作でも最高でしょう。尚、四寸とあるのは丸平さん独自の子供仕立寸法で、通常の七寸です。
謡
笛
小鼓
大皮
太鼓
七寸随臣 高さ21cm
これが丸平さんに残された二世猪山作七寸随臣・仕丁練頭の最後でした。とりわけ若い随臣の頭が美しく、丸平さんも、胴に刺した時こんなにいい頭だったろうかと驚かれたとか。虎の敷皮は絹のスガ糸を染めて植え付ける毛植え細工。京都でもとうに絶えてしまった伝統工芸ですが、七世の従兄である故大木泰典(タイスケ)さんがこの随臣のために作り上げたもので、今や形見となりました。段飾りする時、丸平さんでは四位随臣をあえて向かって右に据えています。代々この飾り方をしたのは、四位の若い随臣を女雛と同じ側に置いて万が一にも間違いがあっては…という配慮とか。こうした神経質さがユーモラスに新鮮です。
三位
四位
七寸仕丁 高さ21cm
着付けと振り付けは、丸平さん代々の様式で水干(スイカン)の両脱ぎ。丸平さんではこの水干を白一丁(ハクイッチョウ)と呼びます。一越(ヒトコシ)という生地による袖の二引は金糸刺繍。二世猪山と初代川瀬健山(初代猪山の甥)は、下者の頭を分担して作った時期があり、官女と随臣は二世猪山が、五人囃子と仕丁は初代健山が担当したため、猪山の仕丁頭は貴重なのです。紅葉の掃き寄せを特別に作って掃除用具を置き、鍋は大根と揚げを炊く質素なものにしてあります。